2016.6.2

幸野 志有人 (こうの しゅうと)

生まれた瞬間から枕元にはサッカーボール!

―”志有人“と書いてシュート。サッカー選手になるべくしてつけられた名前という感じですね。 そうですね(笑)。何でも、生まれてすぐ僕のそばにはサッカーボールが置かれていたそうです。ですから、物心付いた時にはすでにボールを蹴っていました。父がサッカーが好きで、今もサッカーに関わる仕事をしているのですが、その父の影響が子どもの頃には大きかったと思います。 チームに入ってサッカーを始めたのは幼稚園の時。休み時間もずっとサッカーをやっているような子どもでした。僕はあまり人見知りをせず、自分から積極的にいくタイプ。サッカーをとおして友達が多かったので、みんなとサッカーをやっている時が一番楽しかったです。 小学生の頃は、毎朝早く起きて家の隣の公園で父とサッカーをしてから学校に行っていました。今考えたら、父もよく仕事に行く前にそんなことができましたよね。 ―小学校卒業後は、日本サッカー協会のエリート養成機関である『JFAアカデミー福島』へ進みました。 進路については、たまたま僕が小学校を卒業する時にアカデミーが始まったので、深く考えずに『行ってみようかな』と自分で決めました。アカデミー周辺は遊ぶ場所もなかったですし、サッカーだけに集中できる環境。13歳で親元を離れましたが、全くホームシックにはならなかったです。ただ、時々東京に帰りたいとは思いました。やっぱり地元の友達に会いたかったですから。 アカデミー時代に、1歳上の年代のユース代表に入ったのですが、そこで宇佐美貴史選手(ガンバ大阪)ら、いわゆる『プラチナ世代』と一緒にプレーをしたことで、もっと上のレベルの中でサッカーをやりたいという想いが強くなりました。

23歳にして、プロ7年目。サッカー選手として、一人の人間としての決意。

―そんな中、東京の練習に参加して、『東京に来ないか』と声をかけられたんですね。 当時東京には長友佑都選手をはじめ代表選手も大勢いましたし、選手の質も日本トップクラス。その時僕は高1でしたが、この時も深く考えるというより『ここでやりたい!』という想いで即答していました。 ―16歳でプロ入りした幸野選手もプロ7年目。今年23歳という若さで、すでにJの5つのチームを経験しました。 東京で試合に出ることが難しかった時に『今、自分に何が必要か』と考え、その都度とても悩んで期限付移籍をしました。もちろん新たなチームに行けばそのチームのためにプレーしますけれど、最終的にはやはりここ(東京)で試合に出たい。東京に来てもう7年目、実質いたのは多分2~3年だと思いますけれど、僕ももう23歳。これからの人生を考えた時に、人によって選択肢や判断は変わってくると思いますが、僕は『今ここで、この壁を乗り越えなければ』と思いました。そうしないと、自分の子どもができた時に、子どもに「あきらめるな」って言葉を言えなくなる。 ―今年は勝負の年? もちろんそうです。毎年そう思っていますが、今年に関しては本当に、もう危機感しかないです。とにかくがむしゃらに。

人が好き。社交的な性格です。

―プライベートなお話も。オフは何をして過ごしていますか? だいたい外出しています。家にいることはあまりないです。友達もいっぱいいますし、何人かでいる方が楽しいし。カフェに行ったり、みんなでバーベキューをしたり。結構アクティブです。(買い物などは?)洋服が好きで、行くとついつい買い過ぎちゃうので、なるべく抑えるようにしています(笑)。 ―東京育ちの幸野選手にとって『東京』とは? 東京は自分次第で、良い方にも悪い方にも転がる街。そしてすべてがある街。僕はそんな東京が本当に好きだし、やはり地元ですから落ち着く場所です。

最後に、頑張っている人たちへ応援のメッセージをお願いします

悩んでいることから逃げずに、ベクトルを全部自分に向けて必死でやるしかない。やって、それで駄目だったらしょうがない。やらずに後悔をするのは自分だし、人のせいにしても結局返ってくるのは自分。運とかチャンスは、本当に頑張っている人にしか巡って来ないと思うので、自分を信じて頑張りましょう!

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182chスタッフ

調布歴30年!調布を心から愛するスタッフが書いています。